2005年07月02日

片岡義男「恋愛小説」とエルメスと電車男

「昨日みたいな土砂降りになるのかしら」 と妻が聞いた。
「さぁ、どうかな」
天気予報はどうだと言いかけて、やめた。あんな土砂降りの雨は天気予報などあてにならないと思った。
「強い雨にならないなら洗濯物を外に出したいけど。家の中まで湿っぽい」
室内にさがった洗濯物を見て、嘆くような口調で妻が言う。
「お昼近くまで仕事して、その後は買い物をしてくるわ」
「昼食は?」
「家で食べるわ。用意してくれる?」
「ああ」

妻が出かけた後、軽く朝食を済ませてから、二階の本棚から昔読んだ文庫本を出してきた。何冊かある片岡義男の小説から、「恋愛小説」と「恋愛小説2」の二冊。もう15年ほど前の作品だ。
「恋愛小説2」(*1)のあとがき「消えた彼女たちを悼みつつ」のなかにこんな文章がある。

 物語の発端となる行動を起こしたり、最初の発想をしてくれたりする人は女性のほうであり、男性は彼女に対してきちんとリアクションを返してくれる人、という設定で書いていくと、女性たちの誰もが、先ほど書いたような外国人、外国で教育を受けた人、娼婦、ホステスなどをひとつにした上で、それをたいへん薄く希釈したような人物として、最終的には浮かび上がってくる。
 僕としては希釈されきる寸前まで薄めてあるのだが、それでもまだ、彼女たちの鼻っ柱は、しっかりとした根拠を持って、充分に強い。内向しない、自制や自省の力を持つ、対立をおそれない、からっとしている、自分は他ではないと確信している。しかし他との共通点の模索には熱意を持つ、感情的にならない、乾いたスタイルで倫理や正義の形式を追っていく、というような彼女たちの性格を、地の文で説明しても虚しいから、会話のどこかでかすかに感じさせるようにしていくと、結果としてはそれだけですでに、彼女たちは浮世離れしてくる。分かりやすく言うなら、外国人のようになってしまう。
(*1)角川書店 平成2年9月25日初版発行 ISBN4-04-137173-2 C0193

こうした片岡義男の女性たちの描き方が、「電車男」のエルメスに、俺には重なって見える。
誰もがエルメスみたいな女性はいないと考える。エルメスのティーカップやベノアの紅茶。外国語を話せるかと思えば、「ほんとうに愛しい」といった日本語も使う。「大人のキスできる?」「入っていくから、驚かないでね」などと言う女は、まさに片岡の描く娼婦らを薄めたような人物ではないのだろうか、と。
それはまた、まとめサイトにも書籍にも載らなかったが、電車男の時刻表に記された後日談の中の、エルメスが電車男をセックスへと誘導する場面にも感じられる。原作者は、そういう女性としてエルメスを描きたかったのではないだろうかと、俺は思う。

雨は降らず、梅雨の曇り空から薄日も差してきた。朝食の食器を洗って片付け、室内の洗濯物を外に出す。そろそろ昼食の用意をしようか。
午後は妻と、母の病院へ行く予定。そして夜は、映画「電車男」を観にいくつもり。その前に、もう少し片岡義男の「恋愛小説」を読んでみようと思う。

投稿者 meyon : 2005年07月02日 12:27 | 映画・ドラマ

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